岐阜駅前の黄金の信長像
NO.6
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織田信長は尾張守護代の織田家の庶流として生まれました。青年期の信長は、好んで異様な風体をして、粗暴な振る舞いが多かったので、「大うつけ者」の評判が高く、父の葬儀で仏前にを抹香
(まっこう) を投げつけたエピソードは「信長公記」にも記されています。
今川義元との桶狭間の戦い、浅井氏・朝倉氏の連合軍との姉川の戦い、武田氏との長篠の戦い、延暦寺の焼き討ちなど、戦いに明け暮れた信長は気性も激しい人だったようです。
信長は、お酒はほとんど飲まなかったようですが、味の濃い料理を好んだようです。桶狭間の戦いの際には、鎧をつけ、立ったまま食事をして出陣するなど、忙しい食生活の日々もあったようです。
糖尿病はむかし「飲水病」と呼ばれていました。喉が渇くために水を多く飲むので「口渇病」「消渇 (しょうかち)
」とも言われました。信長もこの「飲水病」にかかっており、安土城に入城してからは「手足の痛み、しびれが強かった」という記録があります。糖尿病神経障害を合併していたのではないかと考えられています。
明智光秀の謀反により、本能寺でたおれた信長。彼がもう少し長生きをしていたら!?と歴史好きのみならず、今なお多くの人々を魅了する人物です。
岐阜駅前の黄金の信長像
JP23DI00118